マルタ@アテネフランセ文化センター

アテネフランセで上映されたドイツの映画監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの「マルタ」と渋谷哲也氏による講演「ファスビンダーと結婚の風景」に行ってきました。

アテネフランセの場内に入ってまず少しびっくりしたのは、女性観客の比率が多くなっている、ということ。記憶は若干曖昧で、作品にもよりますが、2008年のファスビンダー映画祭のときはこんなに女性はいなかったような気がします。ぼくの両隣に座っていたのも女性。金曜の夜、というシチュエーションによるところも大きいでしょうが、ファスビンダー映画をアテネフランセで観るとき特有の、あの(勿論自分も貢献しているところの)どことなく暗いホモソーシャルな雰囲気がぐっと後退して、小洒落た美術館での講演会のようになっています。4年間で随分風通しがよくなったんだなあ、と思う反面、少し複雑な気分になったりもします。この複雑な気分は「攻殻以降、押井守観る女子増えてやんなっちゃうぜ。俺たちの押井が」といったちょっと清々しいところのなくもない感情とはまた別物なので、あとで触れます。

「マルタ」は大体こんな話。

「マルタは、父親の死後、イタリアで見かけたヘルムートとドイツで偶然再会し、結婚する。マルタはよき妻として夫ヘルムートの抑圧に従うが、ヘルムートは要求を徐々にエスカレートさせていく」(*HPより転載)

ファスビンダー映画の場合、あらすじだけ紹介しても意味がないようなところがあるものの、かといってあらすじを紹介しないでいいのか、と言われるとやはりあらすじには触れねばならず・・・と、やや厄介な状況に置かれます。講演でも触れられていたとおり、あらすじだけだと古めかしいメロドラマみたいに聞こえる(しかもあろうことか物語の骨組みは他作家の剽窃)。古めかしいメロドラマをグロテスクに誇張して現代に通用する作品として見せるのがファスビンダーの得意とする手法です。つまり古めかしいメロドラマが異化されている訳ですが、骨組みのほうにもかなり微妙な配分でしかし見逃せないような意味が与えられています。そして、この「グロテスクに誇張して」の部分で、ぱっと見いやがらせとしか思えないような演出をするのが、ファスビンダーが呪われた監督だと言われるゆえんのひとつです。

「マルタ」の場合、主演のマルタ役のマーギット・カールテンセンが延々いやがらせを受けるのが間違いなく物語の見所のひとつになっていて、ストーリーといい演出といいカメラワークといい、何もかもが彼女に一見悪意としか思えないものを向けます。しかもこのカールテンセンという人はファスビンダー映画では基本的にいやがらせを受ける女性の役ばかりしているので、ちょっと見慣れた人ならカールテンセンの顔が出てくるだけで「あ、これからいやがらせがはじまるんだな」と思う。「マルタ」の場合、ヒロインはアダルトチルドレンで(これもファスビンダーの大好きなモチーフ)、感情表現べたで人につけこまれやすいというキャラクター設定があるものの、いくらなんでもここまでやるかといった風情。全体の雰囲気をわかりやすく説明する象徴的なエピソードとして、新婚旅行中、海辺で夫にクリーム塗ってよ、とマルタがせがんだところ、日焼けした女性が好きだと拒まれ、次の日茹で蛸みたいな色になって寝ているところを夫に強姦されるのがコミカルに描かれる、というものがあり、こういう描写が二時間近く続きます。

ここで「女性にいやがらせをする映画を作って楽しむ映画なんて監督も観客もサディスト、ヒロインに感情移入する人がいるならマゾヒスト」と言ってしまうことは容易だし、そういう側面もなきにしもあらずなのですが、単なる悪趣味に陥る寸前で、ファスビンダーはほとんどこちら側を解釈不能にしてしまうような変化を加えてきます。「マルタ」の場合、それはヒロインに見逃しようもなく与えられているある種の美しさです。渋谷哲也氏によれば「カールテンセンがもっとも輝いている作品」とのこと。しかもこれは単なる「Sの男とMの美女」という絵になる紋切り型からは離れていて、マルタは作中でわざわざ夫から「がりがりで性的な魅力に欠ける」と言われているし(しかも結婚前に)、ストレートに美女として描かれている訳では全然ありません。
また、むごい目にあっている女性を、綺麗だよ、と評してしまうことで神棚に祭り上げるような男側の「逃げ」も、ここでは回避されています。「逃げ」を読みこむにはあまりにも真摯なまなざしが女優に注がれている。延々いやがらせをしておいて真摯もなにもないだろう、という感じですが、少なくともファスビンダーが自分を安全圏に置いていないことは「マルタ」を観た方には明白です。間断なく続くグロテスクな嫌がらせの最中、アダルトチルドレンであり正しい防御方法を知らないヒロインが、しかし束の間垣間見せる光芒は、極めて屈折した形を取りつつも、圧倒的な「正しさ」に満ちています。
家父長制をグロテスクに誇張することで男性性を笑い、被抑圧者側の依存心を露呈させることで女性性をも叩き、男にも女にも×を付け、しかし妙な○を忍び込ませることで作品自体には◎が付く、という構図は、しかしファスビンダー映画の観客に◎が付くわけでは決してない、という点においてやはり「呪われて」います。

一昨日、両隣を女性に挟まれて「マルタ」を観ていたときに否が応にも気付かされたことに、ファスビンダー映画の観客は透明たりえないんだ、ということがあります(こう書くと前衛演劇のようですが、ファスビンダーはもともと演劇畑の人)。先にも言ったように「マルタ」における笑いはほとんど全てカールテンセンに加えられる嫌がらせから来る笑い、ブラックユーモアであり、ドイツ語の「シャーデンフロイデ」(人の不幸を笑うこと)です。ファスビンダーの嫌がらせの演出というのは本当に天才的としかいいようのないもので、場内は常に笑いが飛び交うのですが、人の不幸を笑っている訳なので他の観客の笑い声は全然愉快じゃない。聴いていて相当にしんどいものの、しかし、自分も笑ってしまう。ひとしきり笑わされた後に、両隣がくすりともしない女性だということを思い出して気付くのは、<自分がファスビンダーの真摯なまなざしを抜きにして、女性差別的な側面にだけ加担している男の観客のようにしか見えないだろう>ということ。最初の話に戻ると、このふたりがいなかったら気楽だったのになあ、と思わずにいられないし、こう認識してしまうこと自体、自己嫌悪を誘います。これは笑えない、と手綱を握りしめて画面に戻るも、あまりにうまいのでやっぱり笑わされてしまう。やりきれなくなってくる、というか正直ぞっとしません。
スクリーン上で展開している出来事とはまた別のところで生理的に怖い。耳障りに響く他人の笑い声を聴きながら、いいよなあ気楽で、などと思った途端、また自分の誤りを認識させられます。今声高に笑っている人間が、どれくらい画面と誠実に向き合っているのかは、こちら側には判断しようがないからです。というか、理屈からすれば笑ったほうが誠実さに到達する可能性が高いとまで思えてくる。どうリアクションしても、観客には高い確率で×がついてしまう。考えれば考えるほど自分に付く×の数が増える。観客は何重にも自己嫌悪を誘われるような迷路に入っていくことになります。

作品の出来としては、数あるファスビンダー映画の中でも傑出している部類に属するのではないでしょうか。ところどころ吸血鬼のイメージがかぶさる夫、そしてこの作品を忘れがたいものにしている旅行先のイタリアの抜けるような青空と住まいであるドイツの人死にが出たというゴシックな屋敷とのアンバランスもあり、ジャンル混淆的な、極めて異様な雰囲気があります。お国柄の違いがあるとはいえ、こういう作品が70年代のテレビ映画だというのが俄かに信じがたい。興味深いポイントーとりわけ印象深いのは、マルタと夫が出会うシーンの360度回転するカメラでしょうかーはまだまだたくさんあるのですが、ずいぶん長くなってしまったのでとりあえず今日はこのへんで筆を置きます。